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『恵泉女学園短期大学誌―日本の女子高等教育への挑戦50年―』

投稿日2010/2/5

学園では、1999年に短期大学英文学科が、2005年に園芸短期大学が、それぞれ大学に統合され、その歩みに終止符が打たれました。

前学園長の大口邦雄先生の提案で、50余年にわたる短期大学の貴重な歴史を記録に留め、客観的な資料として『短期大学誌』を編纂することになりました。5年間にわたる編纂委員及び学園史料室のメンバーの努力の末、創立80周年を迎えた2009年11月2日に発行されました。
本誌は学園本部にて1冊1,500円で販売しています。郵送販売もいたしますので、ご希望の方は下記までお申し込み下さい。

 申込み先  Tel:03-3303-2111 Fax:03-3303-2323

「まえがき」より

学校法人恵泉女学園理事会は、2002年秋、恵泉女学園園芸短期大学の新入生募集を停止することを苦渋のうちに決断した。2005年3月、最後の卒業生を送り出した後、短期大学は多摩市にある4年制の恵泉女学園大学に統合された。もともと短期大学は、英文科と園芸科から成っていたが、英文科は1999年3月に大学との統合を果たした。従って、恵泉女学園短期大学は、2005年3月をもって60年余りにおよぶ歴史に終止符を打つことになったのである。

日本の短期大学制度は、恵泉女学園の創立者河井道に負うところが大きい。第2次世界大戦後の教育制度改革に最も大きな影響を与えた教育刷新委員会には、二人の女性メンバーが含まれていた。その一人が河井道である。米国の大学で教育を受け、かの国の高等教育制度に通暁していた河井道は、当時の日本の特に女性の置かれていた社会的状況を考えるとき、米国のジュニアカレッジに相当する短期大学制度を導入すべきであると考え、この意見が委員会に受け入れられて、短期大学制度の設置をみたと伝えられている。河井道は、恵泉女学園において、女学校の上に高等部及び旧制専門学校を設置してきたが、さっそくこれを短期大学に改組した。

当時の日本では、短期大学制度についてはほとんど知られていなかったので、河井道の短期大学は大いに参考とされたに違いない。そういった事情を思うとき、恵泉女学園短期大学の歴史は、僅か60年余りとはいえ、この方面の後世の研究者にとって貴重な資料となるかもしれないと思われる。そこで、創立当初の教職員の中に、元気な方々がおられる内に、また園芸短期大学の諸資料を散逸させないためにも、この際『恵泉女学園短期大学誌』を編纂しておくことが望ましいと考え、学園長を委員長とする短期大学誌編纂委員会が設置され、史料室の支援のもとに活動することとなった。

委員会は編集方針として、まず資料を整理して閲覧可能とすること、次ぎに当時の諸々の社会情勢や恵泉女学園全体の動きを理解するために正確な年表を作成し、これらに基づきつつ、読者の便宜のために学園通史をやや簡潔にまとめ、短大史を英文科と園芸科に分けて執筆してもらうこととした。それらはどちらかと言えば、資料に基づいて客観的な立場から書かれることになるであろう。しかしそれだけでは、短期大学の実態は捉え難いかもしれないと考え、短期大学に深い思いを寄せて貢献して来た幾人かの人々に、独特の理念を生き生きと伝えるような挿話などを、思いを込めて書いてもらうことにした。

なお、現在六本木にある恵泉園芸センターは、園芸科の財政を支えるために、園芸科の卒業生たちによって経営されてきた。過去大きな収益を挙げて園芸科を支えてきたばかりでなく、恵泉の園芸の精髄を世に知らしめ、蓼科ガーデンを造るなど、短期大学の歴史に欠かすことのできない要素として活躍して来た。その歴史もこの際書き留めておくこととなった。

執筆を依頼した方々は、それぞれたいへんな労力をかけて、責任を全うして下さったと思う。また、資料の整理、年表の作成をはじめ、実務をしっかりと支えた学園史料室のスタッフたちの働きは、非常なものだったと思われる。元来、この短期大学誌は、私が学園長の任期を終える頃には完成する予定であったが、実際に作業してみると、思いのほか時を要することが多々あり、現学園長に引き継がれることになった。折しも学園創立80周年記念を祝うときに当たって、短期大学誌が刊行の運びとなったことは慶ばしいことである。前学園長として、編纂に関わったすべての人々に、心から感謝申し上げたいと思う。

大口邦雄(前学園長)